私はこれまで6年間日本で働いてきましたが、昨年11月にプロフェッショナル・スクラム・トレーナーになってから、日本のスクラムやアジャイル開発の現状と今後の展望についてよく質問を受けるようになりました。そうした質問に触発されて私自身もこのテーマについて掘り下げて調べたり考えたりするようになりましたので、この記事にまとめました。(English version here

スクラムとアジャイル開発の現状

 1986年、当時 一橋大学教授であった野中郁次郎氏と同大学の竹内弘高氏は「The New New Product Development Game」(Harvard Business Review) という非常に有名な研究論文を発表しました(1)。この論文は日本企業による新製品開発プロジェクトの成功事例を紹介すると共に、これらのプロジェクトに共通する特徴として「自己組織化されたチーム」「開発フェーズの重複」など、現在のスクラムやアジャイル開発の原理原則とも非常に相通ずる特徴を挙げています。そのため、多くの人がこの論文をスクラムのルーツの一つと考えている程です。最近では、日本でのスクラム導入の成功例も続々と出てきています(² ³ ⁴ ⁵)。また、国内のアジャイルコミュニティやイベントも年々その規模を拡大しています。

 しかし一方で、日本は世界と比べてスクラムやアジャイル開発の原則が一般的に広まっていません。これはDX (⁶)の進捗に関する調査結果、ケーススタディ、雇用市場の状況、資格保有者数、公開トレーニング、カンファレンスなど、どのデータを見ても同じで、日本ではスクラムやアジャイルが浸透していない事が示唆されています。また仮にこれらのデータを日本とアメリカ、ドイツ、フランス、インドとで比較した場合でも、同じ結論に達することでしょう。

このようなデータは単独ではアジャイルの浸透状況を正確に表すものではありませんが、共通して指し示している事が一つあります。それは、日本においてはスクラムとアジャイル開発が他の国程には行われていないという現状です。これは何故でしょうか?

開発手法の活用状況 (DX白書2021 エグゼクティブサマリー」情報処理推進機構 p11)

 

日本文化

日本企業はリスクを回避し、予測不能な事態を最低限に抑える事をとても重視しています。 日本には、ほんの小さなリスクを減らすための注意事項やルールが多くあり、私自身も日本に住んでいてそれらに毎日のように遭遇するので面白く感じる時もあれば、戸惑う時もあります。例えばエスカレーターに乗る時のルールから、トイレの正しい水洗方法まで実に様々な決まりがあります。もしもジムでトレッドミルに乗っている時にちょっとでもスマホを触ろうものなら、すぐに誰かが飛んできて「危険ですからおやめください」と言うでしょう。 

また、日本人は綿密な計画を立てそれを完璧に実行する事に誇りを持っています。だからこそ日本では電車は1秒の狂いもなく正確に運行されるし、生活は全般的に便利なのでしょう。そして過去数十年に多くの日本メーカーが成功を収めてきたのも、こうした緻密さに起因するところが大きいのでしょう。しかし、一方でこのようなマインドセットは、実験的取り組みを通じて安全に失敗し、そして失敗から学習する能力が求められる場合にはあまり役に立ちません。

同時に、日本の文化が持つ別の側面が、本当の意味での財産であることがわかります。 

日本では、誰もが幼い頃からチームワークの大切さや、チームとしてパフォーマンスを発揮し、競い合うことの喜びを学びます。また、日本人は礼儀正しい国民です。会話をする際は相手に敬意を払い、聞き上手でもあります。一般的に「チームプレー」に長けていると言っていいと思います。複雑な製品開発の工程では、異なるスキルや視点を持つ人々が信頼に基づいた緊密な協力関係を構築する事が必要とされるため、この点は有利に働きます。

また、日本人は信頼性が高く、約束した成果を出す事をとても大切にします。これはアジャイルチームが自己管理型であるために重要な点です。アジャイルチームでは、メンバーは上長からの圧力には依存せずに、お互いに責任を持ち成果を達成する必要があるからです。代わりにこの圧力はチーム内部から来る必要があります。お互いに説明責任を果たすために適切な程度のピア・プレッシャーがあるチームは、集団的なパフォーマンス不足に陥る可能性が低く、後でトップダウンのコントロールに逆戻りすることもありません。 

私は今までの経験から、日本ではひとたびチームや組織がスクラムやアジャイルマインドセットの醸成に向け最初の一歩を踏み出すと、上記で述べたような日本人の特性がアジャイルの導入を促進し、パフォーマンスを支えるという事を学んできました。

最後に、日本でアジャイルが受け入れられるようになるには、日本独特の文化も理解しておかなければなりません。他の国でもそうですが、こうした文化的背景は一概に良いとか悪いとか言えるものではありません。ただ変革を起こす際には、そうした背景を理解しておく必要があると私は信じています。例えば、日本ではコンセンサスを取る、すなわち合意形成に基づいた意思決定と根回しが商習慣として根付いています。合意形成には当然ながら時間がかかり、それをやり過ぎると企業は業績低下に悩まされることになりますが、一方、日本では重要なステークホルダー(従業員、経営者、顧客など)の心をつかめば、あとの意思決定は容易であり定着しやすいと言われています。

私も日本の大手保険会社でコンサルティングをしていた時に、それを目の当たりにしました。当時、私の同僚が新しい重要な市場機会を活かすためにアジャイルチームを立ち上げるべく、その合理性と手法について何ヶ月もかけて議論を進めていました。ある日、遂にアジャイルチームの立ち上げが承認されたのですが、ほんの数週間後には営業、営業企画、ITなどの有能な人材で構成されたチームが組成されただけではなく、真新しい家具が置かれたチームルームまで用意されていました。 

このように日本特有の文化的な背景がスクラムとアジャイル浸透の遅れに何らかの影響を与えている可能性は否定できないかもしれませんが、それだけでは日本が他の国に遅れをとっている理由を完全に説明できるとは思いません。

日本におけるソフトウェア工開発

日本以外では、スクラムとアジャイル開発の基本原則は殆どが以下の2つのフェーズを経て浸透しました。

フェーズ 1: ソフトウェアエンジニアやソフトウェア開発企業が複雑な事業に対処し、急速に変化する顧客の期待に応え、テクノロジーの柔軟性を活用するために、アジャイルを採用
フェーズ 2:ソフトウェアの世界に触発された異業種の企業がソフトウェア業界からアジャイルを学ぶ。さまざまな職種の人々が、さらに機能横断的なチームに引き込まれるようになり、アジャイルが組織全体の優先事項になる。

 日本はある意味このフェーズ1の段階で止まっているのではないかと私は思います。Google for Startups Japanの代表であるTim Romero氏は次のように述べています(⁸)、「80年代から90年代にかけての日本のソフトウェア産業は、メインフレームとほぼ同じでした。開発するソフトウェアはクライアントが受け入れサインをできる程度のものを作れれば十分だったし、また、クライアント側も所属する系列の企業にソフトウェア開発・保守を頼らざるを得なかった。ソフトウェア開発に対するハードルは非常に低かったのです」。つまり、当時の日本ではソフトウェア開発とは単純にチェックリストを確認していくような作業だったのです。それ故、ソフトウェア開発という業務は他の国のように注目されることはなく、ソフトウェア技術者は欧米だったら受けたであろう尊敬を得ることはありませんでした。

従って、日本におけるアジャイル浸透は典型的な「ソフトウェア→その他」という道のりを辿らないのではないかと、いうのが私の印象です。むしろ、最初のリーダーシップとロールモデルは他業種からもたらされる可能性が高いと思っています。例えば、製造業やマーケティングなど全く異なる分野から生まれると思います。また、政治家や他のオピニオンリーダーもその形成に一役買うかもしれません。

次はどうなるのでしょうか?

アジャイルは、成功する組織に不可欠な要素です。だからと言って、アジャイルは成功する組織にとって唯一の重要な属性ではありませんし、すべての組織が同程度にアジャイルを必要としているわけでもありません。しかし、もしある組織が少しでも複雑なことを行っていて、そこにテクノロジーが絡んでいたり、顧客のニーズが時とともに変化したりするのであれば、その組織はアジャイルを取り入れる事で迅速な意思決定や早期かつ頻繁なリリースを実現し、学習、そして適応の能力を備え、大きな恩恵を得られると思います。このことは日本企業にも明らかに当てはまります。そして、アジャイルが雪だるま式に浸透し始めるのは、リーダーシップと勢いとタイミングの問題に過ぎないと、私は楽観視しています。

このように比較的楽観的な意見を述べると、主に2つの反論を受けます。1 つは、日本人はリスクを避けすぎていて、アジャイルを受け入れる勇気がない、というもの。もう1つは、日本人は変化することができない(あるいは、少なくとも驚くほど遅い)、というものです。私はこの2つの反論はどちらも説得力がないと思っています。

日本のリスク回避志向がアジャイルの浸透を妨げるのか?

ここで日本の回転寿司を想像してみてください。客はまず一皿か二皿を注文したら数分待ち、鮨が運ばれて来たら食べて、そして次の注文をどうするか考えます。さらに同じものを注文する場合もあれば、違うものを注文する場合もあり、またはもうお勘定をお願いするかもしれません。この回転寿司の注文方法は、従来のレストランに比べ、無駄を回避し、顧客の不満を解消することができます。

回転寿司のベルトコンベアー(日本)

アジャイルで何かを開発するときも、基本的には同じことをします。小さな投資を行い、選択肢をオープンにしておくのです。これがアジャイル環境でのリスクコントロールの方法でありとても効果的です。 

従って、リスクを避けることとアジャイルを受け入れることの間にそれほどの乖離があるとは私には思えません。問題は、アジャイル開発をめぐる誤解と古い習慣にあると思うのです。そして、これらの問題は克服できると信じています。

日本は変化するのが遅い?

1850年代に日本は突然、西洋諸国に比べて技術的に未発達である事に気づきました(⁹)。その後の数十年の間に、日本は明治維新と呼ばれる劇的な変化と革新の時期を迎え、ほとんどすべてのもの(法制度、教育制度、政府など)を刷新、経済を活性化させ、その過程で文化を再構築したのです(¹⁰)。

マシュー・ペリー提督のいわゆる「黒船」の1つ マサチューセッツ工科大学)

第二次世界大戦後、日本は荒廃し、占領され、日本人は飢餓に苦しみました。しかし、この未曾有の危機が再び変化の引き金となりました。その後、ほんの数十年の間に、日本は「日本経済の奇跡」と呼ばれる回復を遂げたのです。日本は強力な経済力を持つようになり、今日でも世界がその恩恵を受けている多くのイノベーションを生み出しました。

これほど短期間に、これほど劇的に自己改革を成し遂げた国は、他にほとんど例がないと思います。 

ある私の日本のクライアントは、規制の厳しい業界の大企業ですが、5年前にスクラムを採用し始めました。その企業は採用後わずか数ヶ月の間に、組織の様々な部署からスクラムマスターになる人材を選びました。選ばれた社員の多くはそれまでスクラムやアジャイル開発を実践したことがなく、大半が40代がでした。しかし、今ではその社員の多くが素晴らしいスクラムマスターになり、サーバントリーダーシップとアジャイルマインドセットのロールモデルになっているのです。 

日本の歴史を振り返っても、私の周りで一緒に働いている素晴らしい人たちや彼らがキャリアにおいて多くの変化を受け入れてきたことを見ても、「日本は変化が遅い国だ」と単純には結論づけられないと感じます。  

しかし、こうした歴史的事例から見えてくるのは、日本においては十分な説得力と変革の機運の両方を生み出すには強力な破壊的勢力が必要とされる、という一種のパターンです。という事は言い換えれば、アジャイルな働き方が主流になるためには、日本ではある種の「警鐘」が求められるのかもしれない。そして、私たちアジャイル実践者、そして日本の仕事と製品開発の未来に関心を持つ全ての人は、それが少しでも早く起きるよう見届ける役割を担っているのです。

どうすればいいのでしょうか?

この記事では、一般的なアジャイルやスクラムの採用が日本ではまだ低い水準である理由について検討しました。しかし、私はこれらの要因がいずれもアジャイル浸透を妨げるものではないことを論証しました。その代わりに、日本には素晴らしい資産があり、リーダーシップ、勢い、そしてタイミングがうまくかみ合えば、日本もアジャイルを受け入れるようになるだろうとも主張しました。 

もし私の考えが正しければ、日本にはさまざまな分野の実験者が必要であり、彼らは周囲の人々にインスピレーションを与えるリーダーになることができます。また、先生やコーチも必要でしょう。 

現時点で唯一の日本語を話すプロフェッショナル・スクラム・トレーナーとして、私は日本の仕事と製品開発のより良い未来を形作ることに貢献できると信じています。私ができる貢献はほんの小さなものかもしれませんが、私が情熱を注いでいる事に焦点を当てて取り組んでいきたいと思います。

多くのプロボノ(無償提供プログラム)を含む、質の高い学習機会を提供します
アジャイルとスクラムについて、さまざまなオーディエンスに説得力のある説明をすることができるよう努力します。
未来のリーダーを育て、そのための場を提供します。

しかし、日本においてアジャイルが市民権を得るために私にできることは一部に過ぎません。  ですから、せっかくここまでこの記事を読んでくださった皆様にも是非考えてもらいたいことがあります…。皆さんは;

日本の素晴らしい成長ストーリーの次の章に、どのような形で関わりたいとお考えでしょうか。
スクラムやアジャイルな働き方によって、どのような業界や職種が特に活性化すると思いますか?
皆さんが日本のために早急に実現させたいと考えていることを、私たちはどのようにサポートすればいいのでしょうか?
日本の未来に関心を持ちそうな人を知っていますか。また、そのような人たちとどのように関わっていけばいいのでしょうか。

もし、自分にも果たせる役割があると感じたら、あるいはこの記事が皆さんの心に響いたなら、ぜひ私と繋がり(TwitterLinkedInwww.agorax.jp)、一緒に日本のコミュニティを成長させましょう。 

 

参考文献

https://hbr.org/1986/01/the-new-new-product-development-game 

https://www.msd.co.jp/news/corporate-0106-2/ 

https://newspicks.com/news/5693108/body/ 

https://tune.hatenadiary.jp/entry/2020/02/08/141657 

5 https://redjourney.jp/news/2021/12/08/do-the-right-muit/ 

6 https://sakumaga.sakura.ad.jp/entry/2022/02/03/120000 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E5%9B%9E%E3%81%97

8 https://www.bbntimes.com/technology/the-forgotten-mistake-that-killed-japan-s-software-industry 

9 https://factsanddetails.com/japan/cat16/sub108/item516.html 

10 https://historyincharts.com/the-meiji-restoration-boost-to-japanese-economy/ 

11 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7 

 

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